2008/07/14

probability

考え得る全ての事象を想定して

生きなければならないなら

どれだけ悲しい現実だろう?

自分から見て区別できないものは

同じ扱いにしていいのだろうか?

自分の感覚の届かないこと

そんなことにまで対策しなければ?

何が真実でも対応できるような

妥協策で生きていくのが正解?

4 件のコメント:

あんこ さんのコメント...

 どうもcurrentさん、あんこです!前回の投稿も含めてコメントさせてください。

 自分の中にある‘悲しみ’という感情って不思議なもので、長い時間悲しみの中に身を置いてるとその悲しみに‘優しさ’みたいな、居心地の良さを感じたりします。それは私が弱いからなのかなって思っちゃいます。どうなんでしょうね?

 あんこは、人生って妥協の繰り返しだと思います。色々な場面に出会って、色々な妥協をして、それで人は成長していくんだと思います。でもその妥協の中にも自分なりの小さな幸せを見つけたり、そういうコトができたら妥協策で生きていくのもいいかなって思えるかもしれません。

 すいません偉そうなコトばっかで…。

匿名 さんのコメント...

区別できない物は不明にしておくのがいいんじゃないか?
見た目じゃどっちが美味いかわからない物を、食わずして両方同じだというのは違うだろうし。


オレは妥協するなら・・・。
必ず足掻いてるな。無駄でも。
無駄と知りつつも、足掻き続け。
結果出て・・・初めて妥協・・・するかもと考えるな

まぁ正解なんてないさ?
妥協が結果いい場合もあるだろうし。

current さんのコメント...

>あんこさん
遅くなってすみません(汗) 投稿はケータイからできるのですが,コメントはPC開いた時しかできないので,これからもよく遅れることがあると思いますが許してください(苦笑)

そうですね,不の感情を長い間抱いていると,麻酔がかかったようにその感情に慣れてしまうことがあると聞いたことがあります. 僕はたまに沈んでしまったままその状態でずっといたいと思うことがあるんですが,確かに自分の殻に篭もってしまいたいというか,そういうことはあると思います. それを弱さというのかどうなのかは僕には分かりませんが,精神的に防御的な姿勢になるのは人間の仕様なんじゃないかなんて思ったりします. すみません,あまり答えになっていませんね(汗)

そうですね,人はみなそれぞれ全く違った個性を持っているわけですから,うまく世の中を渡っていくためには当然妥協も必要,,,そしてそうやって妥協の仕方を身につけていくことが言わば社会に適合することなのかもしれませんね. 確かに実際,常に我を通して人と衝突していては幸せもなにもないわけですから,適度に折り合いをつけながら生きていくのは大事なことなのかもしれませんね. ありがとうございます.

いえいえ,色々意見してくださるのはとても嬉しいことなのでこれからも何か思ったことがあれば書いてくださると助かります.

current さんのコメント...

>7thさん

そうですね,確かに不明は不明のままというのは一理あると思います. 敢えて真実を気にしない方がいい場合もたくさんありますね. ただ,,,うまく例えられないんですが,その事象に手をつけなければいけない場合がよくあるんです. そういうときにどうするかっていう問題ですよね. 放っておけない問題には,やっぱり事実がなんであろうとある程度通用するような無難な対処をするか,あるいは自分がこうと信じた方法を試すか,,,悩みませんか?

この流れならたぶん7thさんは事実が見えない間は自分の信じた方法で一直線でいくんでしょうが,,,結果が見えない以上,危険を冒すべきでないっていう感情もあり,自分の信念に正直にいけっていう感情もあり,,,葛藤するんですよ.

正解を出す気はさらさらありませんが,どうしても正体の分からない何かに向かって問いかけてみたくなります.